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    時の片~かけら  4

     17, 2012 07:00

      1991年



    その年に襲った榊家の不幸は、前年の雲仙岳の噴火に端を発していた。

    噴火さえ無ければ幸治は、父を失う事もなかったであろう。



    その年の初頭紫水館は取引銀行の仲介に依り、大手のホテルチェーンへの売却が決まった。

    その年で、榊家唯一の朗報であった。

    おかげで従業員達への退職金なども渡す事が出来た。


    その後新司は知人の紹介で、地元の最大手タクシーへの就職が決まった。

    周囲の人々は旅館業界への就職を勧めたが、新司は頑なにそれを拒んだ。


    潤子はその心情を理解していた。

    新司は全てを忘れたかったのだ。

    それは、潤子も同じ思いだった。




    運命の日ー6月3日




    「行ってきます!」


    幸治の元気な声が響いた。


    「行ってらっしゃい」

    潤子も明るい声で応えた。


    「じゃあ、僕も行ってくる。」


    新司は、軽く潤子の背中に触れ笑顔で出掛けた。

    幸治と潤子が、最後に見た新司の姿だった。




    1990年11月に噴煙を上げた雲仙岳は、その後半年間は小さな水蒸気爆発のみに終始していた。

    しかし、5月20日になり突然山頂に熔岩ドームが姿を現した。


    この事実は、灼熱のマグマが地表に達した事を意味していた。

    しかしながらこの時には、地元民や火山専門家など誰もが1792年の噴火以来になる新焼熔岩の出現だと考えて深刻な事態を予想だにしなかった。


    1991年5月24日、火山学者火山専門家などを、震撼させる事態が発生した。


    民放各局がその日の朝に撮影し、昼、夕のニュースで流した熔岩ドーム崩落の映像が学者たちの常識を覆したのだ。


    雲仙岳の噴火では、過去に例がなかった。


    いや、日本全国の火山噴火でも例を見ない火砕流だった。

    唯一、1977年の有珠山噴火の際に確認されていたが、住民のパニックを恐れ公表されていなかった。


    翌25日午後、九州大学島原地震火山観測所に集まった火山専門家達は、気象庁が夕刻に発表する火山情報の中で火砕流と云う言葉を使うかどうか、喧々囂々議論を闘わせた。

    住民のパニックを恐れたのである。

    学者たちは、パニック神話をその当時はまだ捨てられずにいた。

    情報を出す事でパニックに陥る事はほとんど有り得ない。

    正しい情報こそが、両者にとってより良いリスクコミュニケーションを生む。

    今では常識とされる事が、当時はまだ知られていなかった。

    長時間の議論の結果、苦肉の策として発表の末尾に次のコメントが添えられた。


    「…尚、九州大学地質学調査所等の調査に依れば、24日午前8時8分頃の崩落現象は、小規模な火砕流であったとの事です。」


    火山専門家達の恐れは、全くの杞憂に終わった。

    住民のみならずメディアさえもが、火砕流と云う言葉が意味する深刻さを理解出来なかったのだ。


    続く




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    こちらより




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